お経や法事は亡き人の供養になるのか|親鸞聖人が教えられた本当の供養のアイキャッチ画像

葬式や法事でお経をあげてもらうと、それが亡くなった人の供養になる。そう思っている方は少なくありません。しかし親鸞聖人は、父母の追善供養のために念仏一返も称えたことはない、とまで言われています。では、亡き人のために本当にできることは何なのでしょうか。

仏教は、亡くなった人のためのものなのか

仏教と聞くと、葬式、法事、墓、法名を思い浮かべる方が多いと思います。

お寺さんに来てもらい、仏壇の前でお経をあげてもらう。長いお経を読んでもらえば、それだけ亡くなった人のためになる。そんな感覚は、現代ではかなり自然なものになっています。

けれども、ここで一度立ち止まらなければなりません。

お経とは、もともとお釈迦さまの説法を記録したものです。お釈迦さまは、亡くなった人に説法されたのではありません。生きている人に、生きている間に聞くべき教えを説かれました。

つまり仏教は、死者のための儀式から始まる教えではありません。生きている私が、仏法を聞くための教えです。

ここを外すと、供養の意味も大きく変わってしまいます。

葬式や法事には意味がないのか

では、葬式や法事をすることには意味がないのでしょうか。

そうではありません。

亡くなった方を丁寧に葬ること、遺された人が集まり、手を合わせ、仏法を聞くご縁にすることには意味があります。亡き人を思う心そのものを否定しているのではありません。

ただし、葬式や法事をしたから、それ自体が亡き人の救いを左右するのだ、とは浄土真宗では言いません。

ここを混同すると、仏教は「死んだ人のために何かをする儀式」になってしまいます。けれども本来の仏教は、今生きている私が、仏法を聞いて本当の幸せを明らかにする教えです。

だから葬式や法事は、そこで終わるものではありません。仏法を聞くご縁にしてこそ、生きた仏教になるのです。

親鸞聖人は、なぜ父母のために念仏一返も称えなかったのか

『歎異抄』第五章には、非常に強い言葉があります。

親鸞は父母の孝養のためとて、念仏一返にても申したること、いまだ候わず。

— 『歎異抄』第五章

親鸞聖人は、亡き父母の追善供養のために、念仏を一遍も称えたことがない、と言われています。

これは、親不孝だったという意味ではありません。亡き父母を思う心がなかったという意味でもありません。

念仏は、私が作った善根ではないからです。

自分の力で作った善であれば、それを亡き父母へ差し向ける、という考えも成り立つかもしれません。しかし南無阿弥陀仏は、私が作った善ではありません。阿弥陀仏が完成され、私に与えてくださるものです。

ですから、念仏をこちらの善として積み、それを亡き人へ送れば助けになる、という考えは成り立ちません。これを自力回向として、浄土真宗では否定します。

亡き人のために何かしたいなら、本当は何をすればよいのか

では、亡くなった人のために何かしたいなら、本当は何をすればよいのでしょうか。

同じ『歎異抄』第五章で、親鸞聖人はこう示されています。

ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道四生のあいだ、いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなり。

— 『歎異抄』第五章

本当の供養は、こちらで善を作って亡き人へ送ることではありません。

まず自分が、自力をすてて、阿弥陀仏の本願に救われることです。そして浄土のさとりをひらき、縁ある人を導く身になることです。

ここでいう「自力をすてる」とは、努力をやめることでも、力を抜いて何もしないことでもありません。阿弥陀仏の本願を疑う心をすてることです。

この点は、別に丁寧な説明が必要です。信心決定、後生の一大事、自力と他力の違いを知らなければ、ここは飛躍して聞こえます。

ただ、少なくとも『歎異抄』第五章の骨格は明らかです。亡き人への思いは、死者のために儀式を積む方向ではなく、自分が仏法を聞き、本願の救いに遇う方向へ向かうのです。

「亡き人を思う心」まで否定されているのではない

ここを読み違えると、浄土真宗は冷たい教えのように聞こえるかもしれません。

亡き人のために何かしたい。その気持ちは、決して軽いものではありません。大切な人を失った悲しみの中で、せめて何かできないかと思うのは自然なことです。

否定されているのは、その心ではありません。

否定されているのは、読経や念仏をこちらの善として積み、それを死者へ送れば救いを左右できる、という考えです。

亡き人を思う心があるからこそ、仏法を聞くご縁にする。亡き人を思う心があるからこそ、自分が本願の救いに遇うことを急ぐ。

そこに、浄土真宗で教えられる供養の向きがあります。

本当の供養は、生きている私の聞法から始まる

供養は、葬式や法事を整えることだけではありません。

それらは大切なご縁になり得ます。しかし、そのご縁で仏法を聞かなければ、仏教が死者の儀式で終わってしまいます。

親鸞聖人は、父母のために念仏一返も称えなかったと言われました。そして、ただ自力をすてて、浄土のさとりをひらき、有縁を度すべきだと示されました。

亡き人のために本当にできることは、まず私が仏法を聞くことです。

そして阿弥陀仏の本願に救われ、浄土で仏となり、縁ある人を導く身になることです。

これが、死んだ仏教ではなく、生きた仏教としての供養です。

さらに深く学びたい方へ

「浄土真宗まるわかり本」を無料で受け取る

「うちは浄土真宗だけど、よくわからない」という方でも、ゼロから体系的に学べる電子書籍をご用意しました。


▲ この記事の元になった解説動画です