仏法を聞くとき、「いろいろな人の話を聞いて、自分で判断すればよい」と思うことがあります。一見もっともらしく聞こえますが、浄土真宗では、誰から聞くかが極めて大切です。なぜなら、仏教を説く「知識」には、善知識と悪知識があると教えられているからです。
「誰の話でもよい」とは言えない理由
仏法を聞いていると、「どなたの話にも、それぞれよいところがあるのだから、特定の先生でなければならないことはないだろう」と考える方があります。
もちろん、一般的な学問や知識であれば、多くの人の意見を比較し、自分で判断することも大切でしょう。しかし仏法では、そう簡単には言えません。
仏教を説く人を「知識」といいます。その知識には、善知識と悪知識があると教えられます。
正しい道を示す人に順えば、その道に進むことができます。反対に、間違った道を示す人に順えば、自分では真面目に聞いているつもりでも、誤った方向へ進んでしまいます。
だから昔から、次のように言われてきました。
西へ行く人に順えば、西へ行くなり。
東へ行く人に順えば、東へ行くなり。
悪知識に順えば、地獄へ堕つるなり。
善知識に順えば、仏にあえるなり。
この言葉は、仏法を聞く姿勢を厳しく教えています。問題は「話が上手か」「感じがよいか」ではありません。その人が、浄土真宗の肝心かなめを正しく説いているかどうかなのです。
蓮如上人が教えられた「五重の義」
蓮如上人は『御文章』に「五重の義」を教えられています。
これによりて、五重の義を立てたり。一には宿善、二には善知識、三には光明、四には信心、五には名号。この五重の義、成就せずは、往生は叶うべからずと見えたり。
五重の義とは、浄土往生において欠かすことのできない五つを示されたものです。
- 宿善
- 善知識
- 光明
- 信心
- 名号
ここで注目したいのは、二番目に「善知識」が挙げられていることです。
宿善については別に詳しく学ぶ必要がありますが、蓮如上人は、善知識を抜きにして浄土往生は語れないと示されています。つまり、阿弥陀仏の本願を正しく聞くには、善知識に遇い、その教えに順うことが必要なのです。
善知識はなぜ少ないのか
「日本にはお寺も多く、僧侶も多い。善知識が少ないとは言い過ぎではないか」と思う方もあるでしょう。
しかし、善導大師は、私たちの生きている娑婆世界を「無人空逈の澤」と譬えられました。これは二河白道の譬えに出てくる言葉です。
「東岸」と言うは、即ち此の娑婆の火宅に喩うるなり。
「無人空逈の澤」と言うは、即ち常に悪友に随いて、真の善知識に値わざるに喩うるなり。
「無人」とは、人がいないということです。もちろん、物理的に人間がいないという意味ではありません。真の善知識に遇いがたく、悪友・悪知識に随いやすい世界であることを示されています。
親鸞聖人も、この二河白道の譬えを『愚禿鈔』に詳しく解釈されています。そこでは、善知識に対して悪知識があることを明らかにされ、誤った導きに随う危険を教えられています。
さらに、お釈迦さまは『仏蔵経』で、悪知識に随う恐ろしさを、目の見えない人が多くの目の見えない人を連れて火坑に落ちる譬えで説かれたと紹介されています。
自分自身が行くべき道を知らない人が、多くの人を導けば、導かれる人もろとも苦しみの世界へ向かってしまう。だからこそ、誰から聞いても同じとは言えないのです。
善知識は何を教える方なのか
では、善知識とは、どのような方なのでしょうか。
蓮如上人は、善知識の役割を明確に示されています。
善知識の能というは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と人を勧むべきばかりなり。
善知識のお仕事は、一心一向に阿弥陀仏に帰命せよ、弥陀をたのめ、と勧めること一つであると教えられます。
また蓮如上人は、次のようにも仰っています。
善知識というは、「阿弥陀仏に帰命せよ」と言える使なり。
ここで大切なのは、善知識に助けてもらうのではない、ということです。善知識は、阿弥陀仏に帰命せよ、阿弥陀仏をたのめ、と教えてくださる使いです。
浄土真宗の「布教使」の「使」という字にも、この意味が込められています。善知識は、自分自身を信じよと教えるのではなく、阿弥陀仏の本願に帰命せよと勧める方なのです。
「帰命の一念」まで導く教え
覚如上人は『執持鈔』に、平生ただ今、善知識の言葉に導かれて、帰命の一念を発得することを教えられています。
平生のとき、善知識の言葉の下に、帰命の一念を発得せば、そのときをもって娑婆のおわり、臨終とおもうべし。
これは、死を迎えてからではなく、平生のただ今、阿弥陀仏に救い摂られる一念があることを示しています。
その一念に、迷いの心が終わり、他力の決定心に生まれ変わる。だから、善知識は単に仏教の知識を説明する人ではありません。阿弥陀仏の本願を説き切り、帰命の一念まで導く方なのです。
親鸞聖人も、善知識に遇うことの難しさを教えられています。
善知識にあうことも、おしうることも、またかたし。
真の知識にあうことは、かたきが中になおかたし。
真の知識に遇うことは、難しい中にも、なお難しい。だからこそ、仏法を聞く者は、善知識を軽く考えてはならないのです。
一心一向に弥陀をたのめ
善知識を語るとき、最後に残るのは「一心一向に弥陀をたのめ」という一点です。
もし、この肝心の「弥陀をたのめ」「帰命の一念」が抜けてしまえば、浄土真宗の教えの中心が抜け落ちてしまいます。どれほど仏教用語を知っていても、どれほど歴史や制度に詳しくても、阿弥陀仏の本願に帰命するところまで説かれなければ、善知識のお仕事を果たしたとは言えません。
動画では、西本願寺の勧学であった小山法城氏と、親鸞会の紀野竹治郎氏の体験も紹介されています。小山氏は、真宗十派があり、布教使も多いように見えても、親鸞聖人の教えを正しく説き切る人は少ないと嘆かれたと伝えられています。そして紀野氏は、後に高森顕徹先生の説法を聞き、「この先生だ」と深くうなずいたと紹介されています。
この体験談が示しているのは、肩書きや所属だけで善知識かどうかが決まるのではない、ということです。問われるのは、親鸞聖人・蓮如上人が教えられた通り、一心一向に弥陀をたのめと説き切っているかどうかです。
善知識に順えば、仏にあえる
仏法は、聞き方を誤ると、聞いているつもりで道を外れてしまいます。だから「誰の話でもよい」とは言えません。
悪知識に順えば、苦しみの世界へ向かいます。善知識に順えば、阿弥陀仏の本願を聞き開き、この世で生きた阿弥陀さまにあう身となり、死ねば浄土へ往く身となると教えられます。
善知識とは、阿弥陀仏に帰命せよと勧める使いです。
そして、その教えの中心は、ただ一つです。
一心一向に弥陀をたのめ。
仏法を聞くときには、誰から聞くかを軽く見ず、善知識から正しく阿弥陀仏の本願を聞かせていただくことが大切です。
▲ この記事の元になった解説動画です